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バンコク(タイ)で感じたこと  2018.04.30

 


■ 帰国しました 18/04/02

今回の旅。初体験の事が多くありました。反省あり、学習あり、感謝あり。実はちょっとしたアクシデントでケガ。結構な出血でビックリ。病院へ。ドクターから「いつ感染症予防の注射をしましか?」と…。<していません>と言うと慌て出す。救急棟へ。傷口への麻酔、消毒、縫合、注射。抗生物質と痛み止めのクスリ。手際よく処置内容を記したドクターズレターを書いてくれました。初めて旅行保険の手続きをしてみます。

3月、4月はドライシーズン。が、バンコクに滞在9日間で一度も青空は見なかった。空はいつもグレー。東京も3月に雪。エジプトのピラミッドにも雪が…。そんな異常気候ですからネ。


18/04/07

バンコク最終日、アユタヤ宮廷見学。シャム時代からの伝統的なタイ文化。ハイセンスな宮廷の佇まいは一見の価値があります。写真は宮廷奉公人の正装。宮廷に入場するにはドレスコードがあるのでご注意。もっとも正門脇にレンタル店が数軒あります。私はロングパンツを借りました。


■ 山田長政 どんな侍だったのか 18/04/05

中世期、タイは“シャム”と言われていました。山田長政(現地名オークチャー・セーナピムック)がアユタヤ王朝の傭兵(1630年頃)になる前、既に城井久ェ門(1610年頃)なる侍大将が雇われていた。長政がライバル国クメール王朝との戦いに勝利。その功績で南方の小国の領主に任命される。アユタヤ日本人村には意外にも10年程しかい なかったようです。碑文によれば、その後、平松国助(1650年頃)とか木村半左ェ門(1670年頃)はたまたアントニ

オ善左ェ門(1680年)なる侍たちが次々に雇われたようです。が、彼らがどんな実績を残したのか碑文は何も触れていません。

さて、半世紀続いた日本人村は王朝の崩落で消滅。全盛期は1700年頃。その頃に一人の日本人女性の事が記されていました。現地名クーオ・トーンキープーマ。父ポルトガル人・母日本人。キリシタン迫害を逃れてシャムへ。アユタヤ王朝の料理人として仕えた。崩落後、菓子職人となる。今もタイには彼女の名(トーン)がついた数々の菓子がある。そんな日本人女性がいた事を知りました。

山田長政と同じ頃(江戸時代初期)、徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人ウイリアム*アダムス。後に三浦半島の領主になる三浦按針です。後世に名を残すヒトは一握り。こんな“外人”が多数いたのでしょう。


■ アユタヤの日本人村 18/04/03

バンコク最終日。アユタヤへ。王朝宮廷から車で10分。中世期の日本人村へ。チャオプラヤー川添えの一画。河口から10キロ。長さ1キロ幅2百メートル。結構広い。最盛期は1700年頃。何と1千人前後が住んでいたとの事。駿府(静岡)の侍大将山田長政が一門50数名を引き連れ、アユタヤ王朝の傭兵として雇われたのは1650年頃。ライバルのクメール王朝との闘いで実績を上げ、南方の領主へ昇格。なので、意外にもこの地に彼が住んでいたのは10年程度だった事を知りました。戦国が終わり、食い詰めた浪人たち。鎖国が始まり、逃げてきたキリスタンたち。朱印船の現地下請けの闇商人たち。そんな訳有の人々の人生ドラマ。その後、彼はどうなったのか…。その舞台跡を見てきました。


■ 老キングたちは同じ事wする の18/04/01

バンコクから車で2時間、アユタヤへ。400年続いた王朝の宮廷見学。クメール王朝(現在のラオスかビルマか?)との戦いに破れて消失。廃墟と化していたとか。近代になリ復元。その理由とは…。何と、キングの愛人の居場所づくり。力と金を得た男が老いると同じ事をする。大阪城もアルハンブラ(スペイン)もここアユタヤ(旧シャム)も同じ。

わがままで気高く強情で強欲な女。そこに惚れたキングたち。女の居場所づくりに精を出す。財を使う。が、やがて女に「運」を吸い取られ、老いた男は朽ちて行く。日本のお笑い界のキングもどこか似てますネ。それができる男。羨ましくも有り、妬ましくも有ります。ご多幸とご幸運を,,,,。


■ 働き者の若い夫婦 18/03/31

明日はバンコク最終日。フリー。古都アユタヤへ。そしてラストデイナーは豪華にタイ料理店で。と言うわけで今夜は最後の屋台メシ。

若い女性が一人で切り盛りする屋台で食べました。テキパキと手際よく何でも作る。笑顔が素晴らしい。こんな女性は絶対に幸せになって欲しい。またいつかお会いしましょう。お元気で。


■ タイの朝粥が美味しい 18/03/30 

バンコクで朝粥(congee)を食べました。薄味で旨い。付き物の揚げパンは小ぶり。車で横付け、持ち帰り客が多い。早足で通りすぎる人々を見ながら食べました。


■ 若き日々 思い出のメニュー 18/03/27 

夕食はホテル近くの夜市へ。念の為,正露丸3粒飲んで出る。若い夫婦の屋台へ。「空芯菜のニンニク炒め」を注文。餅米のご飯はナイと言う。と、直ぐにカミさんが駆け出した。間も無く“ご飯”を持って戻ってきた。仲間の屋台で借りたのでしょう。

ピリ辛の注文品には若い頃の思い出が一杯詰まっている。フィリピン大学に勤務していた頃,給料前は決まって「金欠」になる。裏門の一画にズラリと並んだバラック小屋。貧乏学生相手のメシ屋。顔なじみの店があり,カウンター席に座ると何も言わずともコレが出てくる。目で合図すると相手も目でOKと言う。「付け」で食べられた。給料が入ると払いに行く。その時はゴージャスに肉野菜炒めとビール1本を注文した。

今夕はその思い出のコレだ。これにカラマンシー*ジュースがあれば完璧。が,バンコクでは無理。コレの味は完璧でした。


■ ナイトマーケットはフードコードの元祖 18/03/25 3

バンコク最初のデイナーは夜市へ。フードコートの元祖のような場所。黒酢ラーメンに似た麺スープ。ピリ辛。見た目よりは旨い。そしてワッパに入った餅米。これが旨い。歯ごたえがイイ。日本ではタイ米を好む人は少ない。が、タイで食べるご飯は旨い。炊き方も色々あるらしい。さて、デザートはもちろんマンゴー。今がシーズンです。甘味の餅米と一緒に食べる。これまた絶品です。

明日から3日間のワッツ講習会はPT向け。9時スタートですか、スッタフとの打ち合わせを兼ね、7時に朝食。今夜は早寝します。おやすみなさい。


■ タイはココナツの香り 18/03/25 2

早朝、バンコク(タイ)到着。が、前回の空港ではない。大きい。広い。新しい。なんとバンコクには国際空港が二つある事を知リました。そして懐かしいあの香りが鼻に付く。ココナツの香りです。好き嫌いがあるようですが、この匂い、懐かしい。迎えが来るまで空港内の”Metting Point”でボンヤリ座っていると、あの匂いは消えていました。

国には匂いがあります。アメリカなら甘酸っぱいバラ。スイスはチーズ。日本は味噌(醤油かも…)、そして東南アジアの国々ならココナツです。料理、化粧品、石鹸、シャンプーなど広く使われているからでしょう。匂いが鼻に付くのは数十分程度。間も無くウソのように消えて行く。不思議です。


■ 外交力と交渉力で独立を守った国タイ 18/03/25

維新から今年で150年。幕末の対応が少し違っていたら欧米列強の植民地になっていた。アジアでもう一国、彼らの餌食にならなかった国がタイ。絶妙の外交力と交渉力で王国の独立性を保った。国旗も青は国王の色。白は宗教(仏教)の色。そして、赤は国民の色。ガイドブックにはそう書かれています。

戦国時代、日本人傭兵軍団が海を渡りタイへ。アユタヤ王朝へ仕えた山田長政一門総勢50余名。その後、鎖国となったこともあり誰ひとり帰国することはなかった。現地には今も日本人町の跡地が…。時折、武士の甲冑他(?)が売りに出されるらしい。怪しい限り。が、日本とタイはそれほど古くから関係があったワケです。

そんなタイへ行ってきます。見聞きした事、感想や印象など、追ってご報告します。

2017年、タイでの思い出 詳しくは こちらへ ↓↓↓
https://www.aqua-adi.co.jp/info/31552.html