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7年後 二度目の東京オリンピックをこの目で観たい   2013.09.09

1964年 東京オリンピック
1964年 東京オリンピック 2

2020年、東京オリンピック。よかった…。本当に良かった。

56年前の1964年。水泳競技最終日の最終種目。男子800Mリレーで銅メダル。「水泳ニッポン」と声高に騒がれてたがこれが唯一のメダルだった。あの時、高校三年生(私)、五輪プールアリーナで応援。嬉しかったのか…悔しかったのか…涙を流しながら日章旗を見上げていたのが思い出です。あのレースでの日本チーム泳者の一人が、現在、セントラルスポーツ会長の後藤忠治さんです。

もし、1964年、日本水泳界の“屈辱”がなかったなら、スイミングスクールの誕生はなかった。あるいは違った内容だったかも知れません。翌年、代々木スイミングスクール、東京スイミングセンター、日本鋼管スイミングスクール(後の多摩川スイミングクラブ)、大阪では淀川善隣館、中もずスイミングクラブ(後のピープル)が『うぶ声』をあげます。

私は二度目のオリンピッアードの祭典を東京で観れる訳です。有り難い。

 なぜ仙台在の私が五輪アリーナ内で観戦できたのか。そのワケはオリンピック準候補だった高校生(30名前後かな…?)にフリーパスが配布されたからです。日水連の手厚い配慮。若い世代へのギフトだったと思われます。当時、地域別に選ばれ、東北ブロックは競技レベルが低かったので私ごときでも選ばれた。イイ時代でしたネ。感謝。

サンタクララ スイムクラブ

アメリカの競泳選手、ドナルド・ショランダ-選手を見て驚きました。次元が違っていました。浮き上がって泳いでいた。ゼッタイ何か“秘密”があるに違いない。大学卒業後、米国サンタクララへ。彼が所属していたクラブです。彼のコーチ、ジョージ・ヘインズ氏から“秘密”を学びたい。その一心で初渡米しました。が、“秘密”らしい事は何一つなかった。彼らはだた黙々と日々練習していた。結局、当たり前の事を当たり前にする。基本に忠実に懸命に実行しているだけでした。今野 純

AD研所長 今野 純

 


本 表紙

水泳記録マニアを“自称”する古い知人から電話。東京オリンピックで唯一のメダル、男子800リレーのメンバーは福井・岩崎・庄司・岡部の四名。後藤忠治さんは山中毅さんらと400リレーのメンバーだったのでは…とのこと。日大水泳部短距離泳者のエースでしたからネ。

ところで、1964年を契機に私の前にも後にもたくさんの若者が単身渡米。アメリカ水泳界の“秘密”を学びに行きました。中には卒業を待ちきれず、大学を中退してまで渡米するヒトもいた程です。そして、後生大事に日本へ持ち帰った競泳教本(写真)。辞書と首っきりで訳しました。苦労して訳した日本語文を映しっこ。コピーが登場する前の時代ですからネ。彼らの多くは競泳コーチを夢にて、“ニュービジネス”だったスイミングスクールへ就職。情熱だけが取り柄でした。